投稿者「cashing4」のアーカイブ

宮本百合子の作品

 こういう文学の雰囲気の中に素朴な姿であらわれた「貧しき人々の群」は、少女の書いたものらしく、ロマンティックな色彩と子供っぽい社会観をもっていても、日本の農村の或る生活を、リアリスティックな筆致で描き出したところに特色があった。若い作者のおどろきに見はられた眼と心とを通じて、そこに描かれている穢いものまで、それが生活であるという真面目な光りを浴びている。中流の少女が、自分の環境から脱け出て、荒々しく生活の沸騰している場面に取材したということも、一つの特色であった。そして更にもう一つの特色は、この小説で、作者自身が自分の生きかたと文学とについて、一種の公約をしている点である。作者は、それが公約であるとは知らず、ただ心いっぱいの思いで、悲しい同胞よ、わたしはいつかきっとあなたがたの、もっとよい友となる、と約束している。
 この願いとその実現のための努力とは、それからのち、三十年に亙る様々の変転、種々の困難と危機とを通じて今日までつづけられている。その間に、日本の社会は幾変転し、大衆の歴史は前進した。その歴史の歩みが、「貧しき人々の群」の作者をも成長させた。日本の文学がその発展として、文学の社会的意義の自覚と階級の観念を理解し摂取した。それが契機となって、わたしのぼんやりとしていた人道的善意は、次第に、自分をこめての民衆が発展する歴史の必然の方向を発見して行ったのであった。日本のプロレタリア文学運動が、社会と文学についてのその真実をわたしに知らせたのであった。

 今から十四年前、ソヴェト同盟が新しい社会を建てた時、つまり革命をやった時、沢山の労働者・農民の闘士が赤色戦線でたおれた。間もなく、ひどいチブスが流行して、それでも大勢のものが死んだ。子供も死んだが大人も死んで、孤児がウンとできました。
 そういう孤児をソヴェト同盟では立派な働きてとして育てるために多くの費用をかけて国家で「子供の家」を組織したのがそもそも「子供の家」のはじまりです。
 今では、モスクワみたいに大きい都会だと各区に一つ以上の「子供の家」をもっている。だんだん「子供の家」にもいろんな種類ができて、日本でいう不良少年のような浮浪児を教育する「子供の家」と孤児の「子供の家」とは別になっている。
 私たちの訪問したのは、親のないソヴェト同盟の子供たちの暮している「子供の家」の方です。
 市の中心から東に向って電車にのる。
 クレムリンの古めかしい壁の外をギーとまわって、菩提樹の下にベンチの並んでいる公園の横を通り、電車は次第に工場の多い区域に進みます。
 少し先へ行くとモスクワ第一の大金属工場「鎌と鎚」の工場へ出る、その手前で電車を下りた。
 町の名、番地を書いてある紙片を手にもって、曲り角を見上げては、右へ、また右へと静かな通りを進みました。(モスクワでは町の角々の家の壁にちゃんと町名札が出ているから、探すときにはそれを目あてに歩くのです)
 暫く行くと左側に「母と子の健康相談所」のカンバンの出た建物がある。その二軒ばかり先が「五月一日の子供の家」です。

 去年の六月、私は祖母とその村にいた。
 毎日夕焼空が非常に美しかった。東京の市中では想像もつかない広い空、耕地、遠くの山脈。竹やぶの細い葉を一枚一枚キラキラ強い金色にひらめかせながら西の山かげに太陽が沈みかけると、軽い蛋白石色の東空に、白いほんのりした夕月がうかみ出す、本当に空にかかる軽舸のように。しめりかけの芝草がうっとりする香を放つ。野生の野菊の純白な花、紫のイリス、祖母と二人、早い夕食の膳に向っていると、六月の自然が魂までとけて流れ込んで来る。私はうれしいような悲しいような――いわばセンチメンタルな心持になる。祖母は八十四だ。女中はたった十六の田舎の小娘だ。たれに向って、私は、
「ほう、おかしいことよ、私は少々センチメンタルになって来てよ」
といわれよう! 私は、御飯時分になると、台所の土間に両足下りて、うこぎ垣越に往還に向い拍子木をパン、パン、パンとたたいた。あたりはしんとした夕暮の畑だから、音はすんで響き渡る。するとかなたの花畑の裏の障子がさらりと明く。もうぼんやりした薄明で内の人の姿は見わけられないが、確に人がい、開けた障子の窓からこっちに向って、今度は手ばたきで答える。